糸杉と鬼灯

眇眇四方山話

労働と生

リビドーが不足している。自発的に何かをしようとする際、気力を溜め込み振り絞らないと体が動かない。結果として休日は優に半日以上ダラダラと眠っている。

勿論、ここで言うリビドーとはフロイトの言うそれではなくユングの方である。どちらでもいいが。

 性的衝動であれ、それを昇華出来れば良いのだ。だが、イドより生じたエネルギーをエゴの防衛・中和を介してリビドーを社会に適応したものへと変性させ発露させる、などという周りくどい発現方法をとっていてはエネルギー効率的に無駄である。無気力状態な身としてはもう少し合理化を計って欲しい。

 

というか何だろうね、あの何でも性衝動に根源つけるフロイトさんは。

 

閑話休題、やる気がないとは言え、日々仕事に行く。それが義務だからである。義務と言うのは労働契約を結んでいるし、憲法で国民の義務とされている、と言う意味である。社会的には必要ないのに。

自分の生活としては仕事は必要だ、正確には賃金、金である。資産が無いのだから働かなくてはならない。金が無くては生きていけない。積極的に死ぬ理由がないから取り敢えず生きていよう程度の生存欲である。

少し調べれば分かるが死ぬのは大変である。人様になるべく迷惑かけたくない系の人々にとっては。

 

しかし潤沢な資産があれば労働しないのか、と考えると微妙なラインである。私は妙なプライドを持ち面倒臭い思考をしているので、所謂ニート生活は、その一方向的な消費生活と無生産性から自殺願望が際限なく高まりそうである。資産があるなら死ぬのにも然程には労はかからない。自殺か殺人依頼か安楽死か分からないがさっさと死にそうではある。

しかし、人間とは弱いものである。プライドで飯は食えないし辛苦は嫌なものである。資産を無駄に消費して生きていそうな気もする。

とはいえ、労働に勤しんだからと言って、それが生産性に寄与しているかと言えば、疑問である。ただでさえ労働生産性の低い日本では合理化すればかなり生産性に変化が起きるだろう。しかし、世界経済を見て必要な生産とは何であろうか。廃棄するしかないものであろうと経済が動けば、その国のGDPとしてカウントされる。穴を掘って埋める作業もシベリアで木を数える作業も経済に関与しているのならGDPに含まれる。

全世界を一望したところで、人類にとって必要不可欠な「仕事」と「人材」とは希少である。

大概の人は突然死して不可逆的に失われたところで社会にとって損失ではない。あるべき所に指定された者がいない事による短期的な不都合はあるだろうが、その程度である。

差別する訳ではないが、例えばコンビニバイトが事故死したとして、社会に何の痛痒もない。オーナーや店長が困るくらいだろうか。あとはシフトを引き継げず勤務継続を押し付けられかねないバイトくらいだ。今はコンビニスタッフの派遣業務があるくらいである。人件費が上がるが、長期に亘って店舗が回らない事もない。

そして多くの業務は同様である。高度な知識や技術を有する医者や弁護士だとて同じである。総合病院の外科部長が突然死してもその日の病院業務は行われるし、専門性が高い術式であっても喫緊で無ければ他院へ転院もできる。最高裁判事が突然死したからと言って、国内の裁判が停止する訳がない。余程の専門的知識・技術でもない限り傷んだ歯車を交換する様に、その地位は誰かに引き継がれる。時計は機能する。

間主観的な世界では「あなた」は不可欠な存在であっても、社会全体からは代替可能な部品である。「我」と「汝」の意味世界が成立しない社会が異常であると言っているのではない。小さなコミュニティーであるなら、掛け替えのない存在として、役割とは別に、その必要な構成員として参加出来得るのかもしれないが、社会が大きくなればそうもいかない。何より人間は有限存在であり、死にゆく存在である。社会システムに個々の死と継承が想定され組み込まれている。人材の喪失と継承の告知を円滑に進める社会的儀礼が葬儀である。

「我」と「汝」の世界であっても「汝」の喪失は世界の破綻を意味しない。近しい人が無くなっても、遺された人々の生が終わる訳ではない。重要な意味と代替不可能な存在である事と、「我」の世界に不可欠である事は同意ではない。

 

社会の周縁や末端にあるのならば、社会的存在としての価値など、無いに等しい。そんな労働に日々の生活の大半を費やす人生に意味はあるのか。

無論、その視点からは無意味である。多くの人間の個々の社会的存在の意味など皆無に等しい。凡人は集団でこそ、その意味を有する。

個々の人生の意味など誰かに与えられるものではなく、自らがが見出し勝ち取るものである。実存主義的にいうのなら、世界に投げ入れられた個々の人間は、自己の相応しい可能性を求めて超え出ようとする、その在り方が人生であろう。

その本来的自己がハイデッガー的であろうとサルトル的であろうと、自己の現存在を認め、可能的自己に向かって邁進する。

 

素晴らしい、頑張ってください。としか言えない。そのエネルギーは無いのです。リビドーは枯渇して久しいのです。

世界から強制的に退場させられる有限存在であり、凡庸な存在である事は自覚している。しかしそこから先駆的覚悟を抱く事は無かった。

死も悪くないのでは?という思い。世界の絶対的価値に対する疑問。そして自己の無価値性の認識。これらは投企と投棄を同義にし、そこに不満は抱けど反駁心を惹起しなかった。

 

歯車として労働する事を否定しない。ただ虚しく思う。

労働=被雇用ではない。しかし自営か被雇用かが問題なのではない。その労働に意味はあるのか。価値があるのか。究極的には無意味だし無価値である。ごく一握りが人類史に於いて意味と価値を認められる。だが凡庸な庶民にとって人類史こそ無意味で無価値でもある。自らの生きる生にその労働をどの様に位置付け意味付けるかである。労働の形態や内容に貴賤はない。

 

歯車であるなら、せめてそこに有意義性が欲しい。マックス・ヴェーバーが資本主義とプロテスタンティズムとの関係性に関して言う様に労働を天職として、相応の経済的対価と精神の安寧を得られるものと出来たのなら幸いであったろう。

或いは労働に何らかの喜びを見出せたのならば楽であろうか。

 

wired.jp

 

歯車を回す事に、人為的に化学的に喜びを注入できる時代は来るのであろうか。マウスでの実験でさえスイッチを切り替える様には出来ていない。2003年にヒトゲノムの解読完了が報告されたが、遺伝子構造とその発現は十分に理解・制御出来ていない。

そして将来的に選択的な記憶制御と感情発露が可能になったとして、それは倫理的にどう解釈されるのか。

しかし、人の自我も記憶も脆い。記憶は容易に作り変えられる。楽しく健全に歯車として回り続ける事もあり得るだろう。

プレイヤーからすればえげつない幸福薬もアルファコンプレックス住民からは完璧で幸福な住民に不可欠であるかもしれない。様々な意味で。クリアランスレッドに判断は難しい。

少なくとも、現在の性向と記憶を有する自我にとって、その感情制御は恒常的継続的になされるのでなければ、更なる自己否定と希死念慮と呼ぶだろう。

労働の人生に於ける社会的に適切な意味付けが出来ていないのだから。

 

そして、その意味付け自体も無意味に虚しく思える。試しにやってみよう、という気力さえ無い。

どうも、生きる事に向いていない。