糸杉と鬼灯

眇眇四方山話

死に至る病

死に至る病

言わずと知れた、セーレン・キェルケゴールの名著のタイトルである。

死に至る病とは絶望である。名言であると思う。

ただこの言葉は、現代人の多くには彼の意図通りには当て嵌まらない事態が多いと思う。敬虔なキリスト教信者の心理的論述だからである。

同書の副題は『教化と覚醒の為のキリスト教心理学的解説』である。

もっともキリスト教信仰云々ではなく、何らかの確りとした信仰を有している人ならば通じる論説である。

カトリック正教会聖公会コプト教会プロテスタント諸派などのキリスト教は勿論として同じ筈の神を信仰するセム系宗教であるユダヤ教イスラム。その他の人格的超越存在を信仰する宗教であれば、通じるところがあろう。

しかし、信仰なくとも、死に至る病とは絶望である、と言う言葉は感覚的になんとなく同意するものではなかろうか。

 信仰を持つ人、持ち続けられる人は幸いであると思う。その人は孤独になり得ない。常に神が傍にいるからである。これは神の実在云々を言っているのではない。神/超越的存在が実在し尚且つ人間個人に関心を抱いているのであっても、神を妄想し盲信しているのでも構わない。当人の主観世界に於いて神がいるのであり、いると認識している事実が重要である。

現代的・科学的な一般常識に当て嵌めれば奇跡などは存在せず、奇跡のように思われる事柄は偶然の産物である。そも、偶然/必然という概念そのものが主観的なものである。相互の前後関係に有意味的連関を持つ因果を認められない事象が偶然であり、切り抜いた特殊な事象の発起に超越性を認めるのが奇跡である。風が吹けば桶屋が儲かり、ブラジルでの蝶の羽ばたきがテキサスの竜巻を起こす。俯瞰的に見ればユークリッド幾何学ニュートン力学が権勢を奮う世界に於いて、偶然は無くすべては必然である。

しかし、個々人の現実世界に於いては全ては必然な訳ではない。量子論ラプラスの悪魔を殺さなくても、人の主観も記憶も脆弱で不安定で曖昧である。神の介在する隙間は余りに多い。予想に至らない善果は幸運であり、奇跡であり、神の手助けである。

 信仰は現世利益に基づくものではない。現実的心理的手助けが無くとも神を信じる者は信じる。絶望の淵にあって神の手助けが無くとも、ヨブは神の御名を讃える。曰く

 

主は与え、主は奪う。

主の御名はほめたたえられよ

 

そしてヨブのような強靭な信仰者、或いは狂信者は稀である。信仰を有する者は、絶望の淵で己を憾み、神を怨みだろう。神を責め立て、罵倒し、呪うだろう。

呪う相手がいる事は幸いであると思う。無信仰者は、訳も判らずに資産を奪われ名誉を失い家族が殺され健康を害された時、誰に問えばよいのか。誰を呪えばよいのか。死に面し尚も神の御名が褒め称えられる事を願うのも、何故自分を見捨てたのかと問い掛けるのも可能である。決して一人ではないのだろう。

 死に至る病とは絶望であり、絶望とは孤独である。故に孤独とは罪である。神を信じる限り、世界に悪が満ち満ちて不幸が蔓延しようとも、決して孤独ではない。神の意志は知ろしめされ、それは実現されるべきである。

信仰を持たない者は、絶望の淵に於いて呪うべき相手すらいない。

 

自分は、決してこの様な絶望の淵にはいない。幸い?にして日本と言う平和な国に生まれたが故である。少なくとも治安や政情の悪さからいつ死ぬともわからない、と言う状況にはない。世界的に見れば非常に恵まれた国家で暮らしているのだ。

ただ、それは幸福である事を意味しない。人間は贅沢な生き物だ。安逸に慣れれば、それまでの経験していた筈の不便な日常にさえ耐え難く感じてしまう。上を見ても下を見てもキリが無い。物質的豊かさが精神的な豊かさに直結する訳ではない。

国際連合の持続可能開発ソリューションネットワークが毎年発表している世界幸福度報告がある。

worldhappiness.report

 

それによると2019年は日本は156ヶ国中58位。幸福と言う主観的概念を順位付けるのは難しいが、同報告はGDP、社会的支援、健康寿命、人生の選択の自由度、寛容さ、腐敗の認識を基にランクづけている。ランク付けの要素を鑑みれば、むべなるかな、と言う所である。GDPの高さや物質的豊かさ、科学や医療の技術水準の高さ、治安の良さ等を考慮しても、減点すべき生き辛い日本の社会を反映した妥当な順位である。

日本は相対的貧困度でも悪い数字を出しており、先進国の中で最低水準である。2019年7月30日にブルームバーグに掲載された記事が日本でも話題になった。記事自体は日本の相対的貧困度が中心ではなく、USAの貧困自己責任論への反論であったが、USAの様に凶悪犯罪として表面化しない分、日本社会の相対的貧困とその自己責任論は解決し辛い問題である。

海外の掲示板では、この記事に関して日本の貧困度は高い事に疑問を呈する意見が多かったが、絶対的貧困度と相対的貧困度の混同がなされているように思う。ただ斜陽国家とはいえ、国際的に未だ豊かな国と認識されている日本で餓死者がいるのは事実である。

また絶対的な物質的豊かさを理由に国内における相対的貧困を否定するならば、貧困国家の典型と認識されているアフリカ諸国でも普通にスマートフォンは使われているのであり、貧困といえるのかとなる。パンかケーキか、と言う事が貧困の本質ではない。

ただ、日本の貧困問題を疑問視する海外掲示板でも、日本の労働環境は劣悪である事には疑問の余地はないらしい。

かつての最も社会主義に成功した国と言う皮肉に郷愁を抱きたくなる。日本の現状は社会主義自由主義の悪い面を併せ持っている。非寛容な監視社会であり、自由を理由とした自己責任論。同調圧力、集団責任を振り翳して声高に言う程に自己決定は可能であろうか。旧習を墨守し個性や独自性を排除している程に社会的支援は充実しているだろうか。

絶望は死に至る病。そうではなく、寧ろ死に至るのが常態であり、希望が生かしめる薬なのではないだろうか。ここでいう生死は肉体的なそれでなくその意志である。絶望を知らず希望に満ち溢れていようがトラックに撥ねられれば死ぬ。絶望に浸っていようが胃瘻をし気管切開しスパゲッティ症候群になればそれなりに生きていられる。肉体的な生死は物質的な生理学も事象であり、希望やら絶望という精神性は無関係である。

希望があるからこそより良き生にしようとするのだろう。そうできるのだろう。希望が無いからこそそうできない。生きる意志がない。それは死を志向する事を意味しない。積極的に死ぬ事にもエネルギーがいる。鬱病患者は自殺しない。その気力さえないのだから。幾らか鬱が和らぎ、気力が回復した時に、死のう、となる。

希望や絶望と生死への意志は同意ではないが密接に関係付いている。絶望した者が死ぬ意志を持つとは限らない。希望溢れるものが死ぬ意志を持たないとは限らない。

ただ、絶望の内に自殺する者は孤独なのだろう、と思う。

一時期流行った自殺方法に硫化水素による自殺があった。後始末の面倒さがあるが、楽に死ねる、とされていた。

恐らくは硫化水素自殺の遺族らしき人の手記がある。

 

硫化水素自殺で息子を亡くした母の手記(心理学総合案内こころの散歩道)

 

自殺遺族の気持ちは分からない。辛いのだろう、とぼんやりと予想はつく程度である。この記事自体は自殺を止めようとするものなのだろう。しかし、これを読んで自殺を止めようとは思えない。記事途中に太字で、

これでも、楽に?と言えますか。

とある。ここから伺える”楽”とは後始末が大変でした、としか私には読み取れない。親しい家族が死ねば悲嘆にくれるのは当然と思ってしまうからだろう、体裁的・経済的側面が印象に残る。硫化水素自殺の流行った理由は自殺者が苦痛を感じない、と言う評価で流行ったのであり、自殺後の死体の処理を含めて、”楽”と評価されていない。現実が苦しいから辛いから死ぬのであれば、せめて死ぬ時くらいは安楽に逝きたいと思うものだろう。

自殺遺族の気持ちは分からない。ただこの記事からは、自殺者は孤独であったろうこと、二次被害など考慮する余裕はなかったろうことしかわからない。死にたいと思った要因は何一つ解決していないのだ。死にたいけど怖いから自殺しない、と言う事は些細な勢いで死にかねない。それこそ酔った勢いや精神薬の効果程度で。希死念慮を持つ身としては自殺者の方が共感しやすい事もあろう。

様々な事情がある。自殺者には自殺者の事情があるし、遺族には遺族の事情がある。家族だからと言って両者が分かりあえる訳でもない。家族である事と理解者である事は同意ではない。自殺を望む者と自殺を悪とする者は分かりあえるのか。人の世は無条件で生き続けるだけの価値があるのか。

 

アイスキュロスは言っている

 

倒れている者を、そのうえ蹴りつけようというのが人間の生まれつきの性である。『アガメムノン』 

 

全面的な真実ではない、しかし確かな事実である。

この世界は生きるに値するのか。喜びや希望を見出している人たちはそうなのだろう。生を謳歌する人たち。そこまでではないにしてもそれなりに小市民として小さな幸福を享受し大切にする人々。地獄への道は善意で舗装されている。翻って世界は悪意に満ちている訳ではない。

価値を見出さない自分の生。価値を見出さない他人と関わらざるを得ない生。人は一人で生まれ一人で死ぬ。死期を選ぶのも否定されるべきなのか。

大概の宗教は自殺を堅く禁じている。生に本質的な意味を見ない仏教でさえ、自殺は推奨しない。

仏説無量寿経』にはこうある。

 

人、世間の愛欲の中に在りて、独り生れ、独り死し、独り去り、独り来る

後世に付け加えられた文言だという説もあるらしいが、どうでも良い事である。人は様々な欲望に溢れたこの世界に、孤独に生まれ、孤独に死んで、孤独に去り、孤独に来る。解脱こそを本意とする仏教らしい言葉だと思う。日本仏教で自殺予防の喩として出される牛の喩などより余程含蓄に富む。

 

ヘルマン・ヘッセはAlleinという詩で謳っている

Es führen über die Erde Strassen und Wege viel,
Aber alle haben dasselbe Ziel,
Du kannst reiten und fahren, zu zweien und zu dreien…
Den letzten Schritt musst du gehen allein.
Drum ist kein Wissen, noch Können so gut,
Als daß man alles Schwere Alleine tut.

 

地上には
大小の道がたくさん通じている。
しかし、みなめざすおころは同じだ。

馬で行くことも、車で行くことも
ふたりで行くことも、3人で行くこともできる。
だが、最後の一歩は
自分ひとりで歩かねばならない。

だから、どんなつらいことでも
ひとりでするということにまさる
知恵もなければ、
能力もない。(高橋健二 訳)

 

希望があろうとなかろうと、恵まれようといなかろうと、結局は一人で己の道行きを歩かなくてはならない。その道程に価値を見出せるか。目的地や執着地に価値を見出せるかは其々であろう。

ただ私は見いだせない。一人で穴を掘り埋めるかの様に思える。理性は、上手く妥協すれば良いと勧めている。隣人と雑談でもしながらなら穴掘りだって楽しいさ、と。しかし私はそこまで器用ではない。

今現在、希望を抱いて生きている訳ではないが、絶望している訳ではない。ただ、この下らない生があと数十年続くかと思うと絶望しそうになる。