糸杉と鬼灯

眇眇四方山話

政治不信と投票率

 そろそろ第25回参院選の公示である。余り盛り上がっている感はないが。注目点は自民党の得票率/獲得議席と、れいわ新選組議席獲得の可否であろうか。以前のような保守・右翼の自公与党とリベラル・左翼の野党連合という雰囲気ではない。そして、相変わらず、国家の現状の認識と将来に対する展望の見えない選挙である。

 どこが政権を握っても変わらない、という国民感覚はさすがに薄れた様に思う。調査媒体にもよるが、安倍内閣に対する支持率は40~55%で安定している。発足時から比べれば大分下がった印象を受けるが、高い水準を維持している。しかし、それは政治に対する信頼がある事を意味しはしない。

  寧ろ、政治に対する期待感は減少していると思われる。日本の普通選挙投票率は決して高くない。2016年第24回参院選投票率は54.7%(18歳19歳の投票率46.78%)である。

 政治に対する信頼度を示すとも考えられている投票率の海外状況を少し見てみる。

  2019年デンマーク総選挙では84.54%、2019年イスラエル総選挙72.3%、2018年イタリア総選挙72.93%、2018年スウェーデン総選挙87.18%、2017年オランダ第二院選挙78%、2017年ドイツ連邦議会選挙76.2%、2017年フランス大統領選第1回投票78.69%、2017年イギリス総選挙68.7%となっている。

 これらに比べると投票率は低いと言わざるを得ないが、2017年フランス議会総選挙は48.7%(第一回投票、決選投票は42.64%)と大統領選に比べ30%程落ちる。2016年USA大統領選でも55.3%である。なにかと意識が高いとされるスイスでも2019年国政選挙では48.5%である。

 

投票率参考:Voter Turnout Database | International IDEA

 

 選挙システムの違い、主となる論題があるので一概に比較できない。USA大統領選も選挙人制度など日本人には馴染みの無い制度である。国民投票制が浸透しているスイスでは年4回ほど国政選挙があり、頻繁にありすぎることが投票率の低さの原因とも言われている。2018年賭博法に関する投票では34%、2016年外国人犯罪者国外追放に関しては63%である。因みにスイス全域で完全に女性参政権が成立したのは1990年である。

 

 投票率で政治に対する信頼が量れる訳ではないし、投票率の高さが政権の安定を示す訳でもない。事実スイスの投票率の低さはそれ程問題視されていない。

www.swissinfo.ch

スイスの様に主題によって倍の投票率は付く事もある。スイスは規模としては小国であるが、議会制民主政と同時に国民投票による直接民主政が成立する国であり、国民皆兵永世中立国である。国民の選択がより短距離で国家の命運に繋がる。投票率は、それは即ち国民が論ずるべき問題を取捨選択しているとも言える。

 また2017年のフランス大統領選では白票が9%、棄権票が25%となり選挙制度改革を求める声が高まっているとされている

 イスラエルも政権の右派連立協議が不調に終わり議会解散、9月に再選挙が予定されている。

 中国の人権発展50年という中華人民共和国 国務院新聞弁公室が2000年に書いた資料によると、かの国の投票率は90%を超えている。

 

 欧米を中心に海外の投票率を概観したが、投票率が高い事は政治、国家の安定・安全

を意味しないし、政治への信/不信を意味しない。鼓腹撃壌の故事の通り安定信頼に足る政府であるなら態々選挙になど行きはしない。

 

 健全な民主主義が成立するには、高い投票率が重要である。しかし、それは国民自身が主体的に政治に参加する意識が必要であるし、参加しやすい環境を醸成する必要がある。

 投票制度が利便性に欠ける。期日前投票制度があるとはいえ、もう少し簡便な投票制度を構築すべきであろう。マイナンバー制度まで作っておいて未だにネット投票が出来ないのはIT後進国としては諦めざるを得ないかもしれないが。

 そして何より、投票に足る、委任にたる立候補者がいない、という根本的実情である。

 世界的に見ても、伝統的な右翼・保守と左翼・革新の対立構造が崩壊して久しいと感じる。現代に至っては左右の伝統的対立構図では政治経済の、そして国民の要求に対する状況に応えられない。状況は寧ろ、近現代的民主主義の萌芽成長の時代、即ちフランス革命から共産革命と変わっていないと言える。民主主義は一歩も成長していない。

 貴族と庶民、資本家と労働者の対立構造が未だに続いている。例えば労働党の様な政党であっても、労働者の代弁者としては機能しておらず、政治エリートとして労働者の対立者として認識されているのではないか。

 そして、それに対する受け皿としてヨーロッパ型のポピュリズム政党が期待されている。伝統的国民ながらマイノリティな人々の意見を代弁し既得権益に塗れないポピュリズム政党は、潜在的な勢力である。

 ただ、ヨーロッパのポピュリズム政党は伝統的民族主義政党や団体を母体としている事が多く、現代的価値観とズレが大きい。選挙で負けはしたがフランスのル・ペンらの様に上手く現代的にリファインする必要がある。国粋主義民族主義、ネオナチなど様々な保守団体があるにも拘らず報道では一緒くたにされる連動的に悪い印象を与える。支持母体とは別の団体であっても同類と見られかねない。ただの結社ではなく、ネットやSNSなどを活用し現実的な政策・戦略と効率的な広報しなければ、支持に足る政党として活動するのは難しいと言わざるを得ない。

 古き良きアメリカを謳ったドナルド・トランプが報道業界や芸能関係の著名人の攻撃にもかかわらず勝利をもぎ取ったのは、元来のビジネスセンスと人脈もあるだろうが、ポリティカルコレクトネスなどのリベラル主体の風潮に密かに嫌気をさしていた層と差別的・ポピュリズム的と批判された政策が合致したのが奏功したのだろう。

 欧米に於いても、ポピュリズム政党は単独で政治を担うには難しいだろう。その政治的主張は公然とは主張し難いものだからである。例えばヨーロッパのムスリム排斥やUSAの移民制限など、文化的多様性を是とする現代的価値基準では、表面的には否定し難い。しかし、議席はどうあれポピュリズム政党の支持が広かる事は、既存政党にとって脅威である。ヨーロッパのポピュリズム政党の躍進が停滞気味なのは、危機感を覚えた既存政党が、自ら刷新を図り、既得権益外の声に対応しだしたからでもある。

 

 左右の政治的エリートに相手をされない層の代弁者としてのポピュリズム政党が日本でも求められている。しかし、その実現は厳しいであろう。ミーハーな割りに変化を嫌う国民性もあるが、政治的積極性や当事者意識に欠けている。日本の民主主義は庶民が自ら勝ち取ったものではないのが原因かもしれない。その為か、自覚的な政治参加の意識が薄い。

 ポピュリズム政党と呼ばれるのは、維新の会と今回の選挙では、れいわ新選組だろうか。しかし、いずれも政権を担う、或いは既存政党に変革を要させる脅威となるには至らない。世間の評価としては日本維新の会に関してはポピュリズム政党と言うよりも中道右派の小政党という評価の方が適切かもしれない。

 政治的不満は決して低いものではないが、選挙に行く層は有権者の半分が精々である。天候が悪いくらいで投票率が下がるのだ。ただ、積極的に投票に足る候補者がいないのであれば、それも致し方ないとも言える。選挙期間以外居丈高に振舞う、消去法で辛うじて選び出した候補者のために数少ない余暇を潰して投票に行く気になれないのも事実である。同時にその様な政治的意識の低さが、候補者の劣化を招いているとも言える。

 他の民主主義国家の有権者はどのように考え候補者を選択しているのかは知らないが、日本に於いてはほぼ消去法である。現在の安倍政権も積極的支持は多くない。左右の別が現代の政情に相応しくないと述べたが、現状日本に保守政党は存在しない。何を持って保守とするかという問題はあるが、右翼と称される事もある自民党も政策的には中道左派である。右翼と言われる自民党改憲主張し、左翼である共産党が護憲を語る。可笑しな国である。

 所詮は論壇やマスコミによるレッテル貼りである。右翼左翼はフランス革命後の議席議席に拠る。時代は変わるのである。

 情報化が進み、個人で多様な情報を入手できるようになっても尚、マスコミの影響力は強い。そして、そのレッテルを容易に受け入れてしまう。フェイクニュースや意図的な情報偏向など、時間に余裕が無ければ、その真偽や意図を見通すのは難しいのは事実である。差し迫った危機があれば投票どころではなく、そうでなければ聞いた名前程度の理由で国政の運営を委ねる。 芸能人などの著名人が立候補すれば、その名声のみで当選させてしまう。常識ある成人であるならば、テレビで見たことある程度の理由で自分の会社の代表権をたとえ数年でも委ねるだろうか。有権者の投票が国家の運営の委託である事を意識すべきである。

 如何なる理由があるにせよ、投票率の低さは強者の既得権益を強めるだけである。開票・集計の不正が疑われるのでなければ、政治を不信する者こそ、選挙であれ被選挙であれ、参政すべきである。

 

 世界的にはリベラリズムヒューマニズムの躍進は、逆説的に窮屈さを強めている。個人の自由は公共の福祉に反しない限り制限されるべきではない。だが、強者の特権が剥奪されているだけなのだろうか。弱者の利権と弱者の守護者の栄誉は過剰に他者を抑圧し得る。公平と自由の規準を何処に据え、誰が監督し執行するのか。民主主義の限界は近いという危機感は杞憂ではないだろう。

 情報技術とAIの発展は複合的で高度な情報の収集と分析とを可能としている。民主主義的人道主義的観点から欧米ではある程度抑制が働いているが、中国共産党は監視社会化が急速に進んでいる。

 新たなる政治体制が確立しなければ、世界の行き着く先はディストピア衆愚政治だろう。そうであるならば日本の行く先は衆愚政治ではなかろうか。

 

ウィンストン・チャーチルは、独裁を戒めて言った。

民主主義は最悪の政治といえる。これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが

民衆は決して賢人ではない。そうであるなら賢くない者にに為政者の決定を委ねるシステムが民主主義である。しかし同時に権力者が賢人でない事は多く、善人である事も少ない。民主主義は最悪の中の次善であると言えるかも知れない。

 

しかし、ニーチェは言う。

狂気は個人にあっては稀有なことである。しかし、集団・党派・民族・時代にあっては通例である

 

 集団は容易に狂う。独裁の悪性同様に歴史が証明している。ならば民主主義もまた絶対的な正解ではない。自由は匂い立つ魅力を持つ。人は民主主義的近代国家に生まれたとしても、凡人であるなら、そこまで自由を謳歌できない。限られた自由の中で苦楽を堪能するのだろう。しかし、非才の身としては、聊か自由が重荷に思う事がある。故にプラトンの言った哲人政治を望む。

 

哲人などは現われはしないのだろうが。