糸杉と鬼灯

眇眇四方山話

癒しと空虚

癒しが欲しい。

日々の生活に虚しさを感じる。生きる目的はないし、生きる意味も見出せない。惰性で生きる生活である。何故、「普通」の人々は生きていられるのだろうか。誰もが生きる目的を持っている訳ではないだろうし、惰性で生きている人もいる事くらいは経験則で知っている。もう子供ではないのだ。

 

 しかし、多くの「普通」の人々が、日々を虚しく生きているとも思えない。その人なりの生きる理由があるのだろう。

 

一般に強欲である事は美徳とされない。仏教では八正道・出離を論ずるまでもなく、出家と言う形で分かりやすく否定されるのが私有財産であり物欲である。

キリスト教でも同様である。今となっては現役の戒律ではないがカトリックでいう所謂七つの大罪の一つに指定されている。そも、端的にはキリスト教では労働は罰である。しかして労働による蓄財もまた悪である。ヴェーバーによれば、カルヴァン派を中心としたプロテスタンティズムで労働を天職とし、それを善行と定義づけ、資本主義の正当化がなされる。

 

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足るを知る事は重要である。現在の幸せに満足できなくとも、幸せなのだから。そして得てして人は足るを知らない。それ故に文明は発展したのだろう。

 

強欲である事は生きる上できっと有利な要素である。アレが欲しい。コレも欲しい。その欲望は生きる糧となるのだろう。

混同する人もいるかもしれないので一応付け加えるならば、強欲と遵法は別の話である。強欲だからといって窃盗する訳ではないし、他人の財産を貪る訳ではない。強欲で遵法意識が低いのならば、強盗強姦、時に殺人となるのだろう。

しかし現代社会では、労働は国民の義務であり、労働には対価が支払われるべきであり、奴隷労働は禁止されている。実情はどうあれ。

勤勉に働いて代価を得て、強欲にコレを買って満足する。そして次はアレが欲しい。働いて稼いで購入する。経済を回す。素晴らしい資本主義である。

強欲の対象が物か者か事か情報か地位か名誉か情報か知らないが、それを手に入れる事で短期的な、或いは長期的な満足を得るのだろう。その為に日々を生きていけるのだろう。きっと。

 

残念ながら私にはその感覚は分からないので推測にしか過ぎないが。

 

その理由がないので日々を虚しく生きる。欲しいモノが無い訳ではない。したいコトが無い訳ではない。ただそこまで強く欲しない。ソレの為に頑張る気力は湧いてこない。別にいいや、と思ってしまう。

例えば、特に代価が必要な訳でもなく歩いて五分の所に出掛ければささやかな満足が得られるとしても、する気力は湧かない。微かにする気になっても体が動かない。それなりの時間と相当な気力を振り絞ってようやく活動できる。その満足に意義を見出せない。怠惰な微睡の方が値百金である、と言うのでもなく体が動かない。それに何の意味があるのか、と思う。虚しく無意味に思ってしまう。

 

空虚な日々を過ごす為に、したくもない労働をして少しばかりの金を稼ぐ。全く以て虚しい。その虚しさを誤魔化せる何かが欲しい。これは強欲なのだろうか。

 

分かり易い癒しとして、例えばペットや植物がある。猫やら犬やら可愛いとは思うが、経済的余裕があったとして飼うだろうか。否である。躾は勿論、世話などする気力はない。植物はどうだろうか。アンプル刺して水やりだけ。それでも否である。虫が湧く。御免である。自然が癒しとか意味が分からない。虫はいるし空気は湿気ている土で汚れる触ればカブレる。モニター越しに見るくらいでいい。今現在、動画でも見ないけど。

 

有名な詩だが、宮澤賢治 〔雨ニモマケズ〕というものがある。こういう人が実際にいれば、多ければ世は幸せなのだろうか。そうではないのだろう。その人自身は或いは幸せかもしれない。たとえデクノボーと呼ばれても、満足ではないかもしれないが充足しているのだろう。しかし、きっと世界はきっと現代社会と変わらない。デクノボーと呼ぶ人々がいるのだから。ゲーム理論だとて、現実には破綻するからこそ、抜け駆ける。世界は理性的ではなく、他人は信用できない。

 

「デクノボー」が理想かと言われればそうではない。そうなれないしなりたいとも思わない。過剰な自己愛も判らないが、純粋な利他愛というのも理解し難い。

  

新約聖書のマタイ伝とルカ伝に収録されている山上の垂訓というキリスト教で有名な説教がある。両者は微妙に異なるのだが、マタイ伝では、それを以下の様に始める。

 

「こころの貧しい人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。

 

神学的解釈はさておき、私は心が貧しいと自認している。しかしきっと私は天国に属さない。12使徒のトマスではないが見なければ信じない。天国を否定はしないが信じてもいない。そして信じていたなら、ルター派的には信仰義認でアウトだろうか。

まぁ、明確な信心があればきっと幸せだったのだろうが、そうではない。私の心は貧しく、しかし天国の門は狭く私には入れない。針の穴には糸を通すのが精々である。

 

アタラクシアは理想である。少しばかり癒されて、そして平穏の内に終わってしまいたい。ただ、死にたい訳ではない。生きる理由が無いだけである。消えてしまえたら、それは幸せなのかもしれない。死にたいという感覚と消えたいという感覚は異なるのだ。

 

しかし、例えば私と言う存在が今から1分後に消えると聞いて、それは救いとなるのだろうか。きっとならないだろう。その言葉を信じられる程非科学的信念を私は有していない。幸か不幸か、科学的知見に縛られている程度には常識人である。或いは神と呼ばれるかもしれない発言者への信頼をきっと持てないだろう。

 

つまりは、癒しは高嶺の花と言う事だろう。