糸杉と鬼灯

眇眇四方山話

安楽と尊厳と自殺

個人的には自殺/自死を絶対的な悪とは思わない。

熟慮の上に選び取った死であるなら、その選択は尊ばれるべきである。

たとえ、それが現在的な艱難からの逃避であっても。

 

 

人は喜楽よりもよりも辛苦をより記憶に残し易い。

心理学者Philippe Verduyn、Saskia Lavrijsenらがルーヴェンカトリック大学で行った調査によると、例えば悲しみの感情は120時間ほど持続し、喜びの記憶は35時間ほど持続するらしい。("Motivation and Emotion"February 2015, Volume 39, Issue 1)

Sadness lasts 240 times longer than other emotions, study claims | Daily Mail Online

悲しみの感情は他の感情に比べ240倍も長く続く(ベルギー研究) : カラパイア

 

尤も、これは人が正の感情よりも負の感情に影響を強く受ける事を意味しはしない。例えば、同調査によると、退屈は2時間、満足は24時間持続する。屈辱は50分、誇りは2時間半。希望と絶望は24時間で拮抗している。

そもそも感情を惹起する要素が継続していれば、必然的にその感情は持続しやすい。美味しい物を食べた感情と傷病を負った感情を等しく比較することは出来ない。だが、艱難の経験は辛苦の感情を惹起し、それが強く長く続けば心に傷を負う。幾ら喜びの記憶を蓄積しようが、それを以て辛苦の感情を打ち消すことは出来ず、状況によってはPTSDなど起こし得る。精神の傷は分かり辛く、そして治癒しづらい。

それは感情なのか疾病なのか。

それは鬱病であるのか、抑鬱状態に過ぎないのか。

容易に判断はつかない。

また、長きに亘る感情は人格に影響を及ぼす。不安神経症強迫神経症を患っていなくても、失敗続きの人生であれば、余人に比べ神経質になり不安に苛まれ、注意を巡らす。それが行為に奏功しなくても。

そして感情は個人の枠に収まる訳ではない。陰鬱な感情を持ちそれを隠しきれない人がいれば、周囲の人に良くない影響を及ぼす。

虐待を受けた子供が、将来我が子に虐待をする傾向が強いのは周知の通りである。

喜びも悲しみも連鎖する。

 

将来の不確かな期待など、現在の辛苦に対して無力である。それでも尚、顔を上げ前に進んでゆく人は強く力に溢れているのだろう。

残念ながら、力ない人は下を見て杖を突きつつ前に進む。広がっているかもしれな絶景は目には入らず、杖を握る手では希望は抱えられない。

躓き倒れる人に差し伸べる手を持たないのなら、捨て置いて欲しい。上段から希望を語り檄を飛ばされても地に張り付ける圧力にしかならない。

 

詰まる所、生命至上主義者でない身としては、安楽死を早急に合法化して欲しい所である。

ただ、自殺を推奨している訳ではない。

それは安逸に死ぬ事を指す言葉ではない。広義にはそうである。

しかし、現実的な術語として、それは安楽死とは医療や法律の分野で語られる言葉である。安楽死を合法化している国・州でさえ、適応範囲は異なる。QOLを十分に維持できない際の自発的な死ではあるが、QOLの中身が異なる。多くの場合、直近の死が避けられえない事が最低条件である。精神的苦痛・疾病をどう捉えるか。余命はどれ程か。何を以て治療可能/不可能とするか。見解は様々である。

 

十分な議論が必要な案件ではあるが、日本に於いては切羽詰まるか、国外からの圧力が無ければ碌に議論は進まないのではなかろうか。

安楽死と言う言葉でさえ、「安楽死」「尊厳死」など些細な拘りを持ち、近年は「平穏死」などと言う言葉も出てきた。衰弱死を強要する事を尊厳とする思想は理解できなくはないが共感できないし納得もできない。

また安楽死と疼痛治療・終末期医療/ケアを同じ土俵で語る。例え死に面していなくても、継続的治療により寛解・完治が可能であっても疼痛治療は行われるべきである。肉体的自覚的痛みが無い事、緩やかな事は、苦痛が無い事を意味しない。

お国柄であるのかもしれないが、下らない言葉遊びで体裁を取り繕い、論点を差し替え、問題を有耶無耶にするのは止めるべきである。

少なくとも国と言う共同体の運営の要衝に就き相応の権威と権益を有する者の義務である。

 

現状、世界的に見ても安楽死は生きる意志や希望を持たない人に安逸な死を認めるものではない。

しかし、自由をこれからも人類の尊重すべき要素とするならば、自己決定としての安楽な死の範囲を広げる事も視野に入れるべきであろう。産業革命以降、世界人口は爆発的に増加した。しかし現在の科学技術では、増加した人口をヒューマニズムの下に賄うだけの技術も資産も哲学もない。全人類を治療するに足る医薬品を提供する資源や資金もない。それどころか、食料や水でさえ十分ではない。

間引きや優生思想ではない。死の文化・死の哲学というものを涵養し、誰に強いられるのでもない、自己決定としての死を選択肢に挙げるのも一考に値するのではなかろうか。