安楽死とQOL
2019年6月5日付のニューズウィーク日本版によると、オランダで性的虐待とレイプの被害者である17歳の女性が合法的に安楽死をしたらしい
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2019/06/17-15.php
性的虐待の記憶「耐え難い苦しみ」と、17歳の少女が合法的安楽死 (2019年6月5日) - エキサイトニュース
私にその様な経験はないし、経験をした知人もいない。その苦しみがどれ程のものであるかなど、想像もつかない。
彼女の出来事に対し、語る口は持てない。
自殺ではなく安楽死と言う形で死を迎えられた事は、せめてもの救いであって欲しい。
-追記-
上記は誤報らしい。
オランダメディアの報道によれば、安楽死は拒否されて後、摂食拒否し餓死で家で亡くなったという悲惨な結末であったようだ。
ニューズウィーク日本版の記事が消えていておかしいな、とは思っていたが、オランダ語だからと横着せずにソースを確りと確認すべきであった。
英語版ニューズウィークの記事では、ひっそりと修正の追記がなされている。
結果としてより悲惨な結末である事を悲しく思う。
肉体的終末期ではない事、未成年である事により安楽死を拒否されたのは残念である。
何を持って終末期と呼ぶかは医学・法学の問題ではあるが、肉体的な痛みさえ数値化は出来ず、まして精神的な状況への理解が乏しいのは残念である。
ただ徒に苦痛と絶望を引き延ばしたに過ぎない。
-追記終了-
ただ、事の是非は別として、オランダのこの様な先進的な取り組みは留意に値する。
言う迄もなく、オランダは安楽死の先進的国家である。
合法化以前の出来事であるが、1998年オランダのブロンガースマ元上院議員は86歳の時点で肉体的には未だ健康体であったが、主自治に対して「私は生きることに苦しんでいる」と訴え自殺介助を依頼し、主治医は彼に致死薬を与えた。検察は、主治医に執行猶予付き3か月の求刑をしたが、地裁は無罪とした。(p17、松田純『安楽死・尊厳死の現在』中央口論社、2018)
オランダでは安楽死合法化以前より、医師による自死/自殺介助と言う形で事実上の安楽死がを行われていたが、2001年に合法化されて以来、安楽死件数は増加を続けて一定数の安楽死が執行されている。
2003年には1626件であった安楽死件数は 2017年には6306件となっている。(自死介助件数は除く)
他の国でも安楽死合法化以降その件数は着実に増えいる。ベルギーに至っては、2014年時点で未成年者の安楽死も法改正で認めて年齢制限を完全に撤廃、2016~2017年には安楽死総件数4337件、終末期の安楽死件数は3683、精神及び行動障害は77件、18歳未満3件(9歳、11歳、17歳)である。
冒頭の女性の件からも判る通り、精神的苦痛も安楽死を認める要件である。即ち、認知症や精神疾患などもまた、安楽死を認める要素となる。実際、認知症や精神疾患を理由とした安楽死を確りとした意志での自己決定の下に合法的に執行されており、その件数は着実に増加しており、むしろ精神的苦痛の解釈が拡大しつつある。認知症や精神疾患の場合、その自己決定は何処まで有効であるのかが議論になっている。事前指示書により安楽死を希望していても、認知症の進行により安楽死を望まなくなる事がある。個人の自己決定は常に更新されるのか。「私」とは誰であるのか。認知症や精神疾患を持つ人間の自己決定をどう解釈するのか。
精神的苦痛の拡大解釈や認知症患者の自己決定は現在、安楽死を巡る対処すべき問題となっている。
2016年オランダの安楽死のケースは、その象徴であろう。認知症を患っていた74歳の女性が頻繁に怒るようになり、また夜中に廊下を徘徊するようになった。医師は、それを認知症進行とみなし患者の事前指示に従って安楽死を執行しようとした。しかし彼女が抵抗した為、彼女を家族に抑え込んで貰い医者は安楽死を執行したのである。
現在、精神的苦痛の拡大解釈を問題視し、安楽死承認の厳格化を目指す動きがあるが、それに対して「駆け込み需要」が起こる懸念も起きている。
信頼する医師や家族・友人と相談し、確りとした意志の下に自己決定し、家族や友人に囲まれ、お別れをして、静かに安逸に逝く。それを望む事は否定されるべきことであるのか。
オ-ストラリアのビクトリア州でも2017年11月に安楽死合法化法案が議会を通過、2019年6月から安楽死が合法化される。AFPの記事によるとオーストラリア初とされているがノーザンテリトリー準州で1996年7月に合法化されていた。勿論法の中身に違いはあり、基準等も異なるものである。しかし1997年3月、保守派議員によりオーストラリア連邦議会で同法を廃案にするための「安楽死法法案1996」が提出され成立し、準州である為に自治権が弱く、同準州の安楽死法は失効させられれいる。
もしノーザンテリトリー準州の安楽死法が存続し、それを否定するにせよ肯定するによ建設的な議論がなされてれば、望まない生を強いられる事はなくなっていたのかもしれない。
冒頭のオランダの少女もその精神的苦痛を理由に安楽死が認められていたのならば、幾らかは精神的にも肉体的に安楽な死が叶えられたのではないだろうか。
彼女の状況では精神的には死の間際である。それを終末期と仮定するならば、彼女は精神的尊厳死や精神的平穏死と呼ぶのだろうか。
希望の無い諦観の下の餓死と、私には思える。
正直なところ、宗教的戒律などによらず、科学・唯物的思考をしていて安楽死を否定する理由がわからない。確かに法制化に当たり、基準や承認・執行制度、「すべり坂」の懸念などクリアすべき問題はある。しかしそれらを乗り越え、オランダ・ベルギー・スイス、ルクセンブルク、カナダ、オレゴン州などの合衆国の諸州が安楽死を認めている。そして国内に安楽死を求める人がいる。それにもかかわらず、それら問題が理由で法制化出来ないのであれば、日本は法制化する能力がこれらの国々より劣っていると言う事である。
安楽死は選択肢であり権利である。決して義務ではない。
安楽死を認めないのは自由であるが安楽死を望むのも自由であろう。現状、死の間際でさえ、その選択さえ許されない。
確かに、安楽死を執行する、或いは致死薬を処方する医師のストレスは多大であろう。安楽死が合法の国でも、己の信仰や信念、哲学から頑として安楽死を認めない医師もいる。
しかし、同様に安楽死に信念を持つ医者もいる、ディグニタスやイグジットなどの自死介助団体や主治医に安楽死を拒否された人の為のSLK(安楽死クリニック)などである。
日本在宅ホスピス協会会長である小笠原文雄は、以下の様に主張している。
医師は人の命を助けたいと希望し、その職業を選択しているからです。その医師に安楽死を望むということは、自殺幇助・他殺という「殺」行為をさせることです。医師も人です。これは迷惑の極みです。
患者本人が、鎮静を望むのであれば、それが望ましい。その意志を無視すべきではない。しかし、私が私である内に静かに死を迎えたいのであれば、選択肢として安楽死は認められるべきである。
死の間際に至って、患者の自己決定よりも治療する事の出来ない医師の感慨が重要視されるのは、安楽死を望む当人からすればそれこそ迷惑の極みである。
医師の望む「命を助ける」とは肉体的生存に集約されるのか。患者のQOLは考慮しないのか。
日本でも安楽死を望む患者や家族から頼まれて、医師が致死薬投与や生命維持装置を停止する事件が起こっている。現状、それは殺人行為であるが、それでも尚、殺人/自死介助をする事の意味を考えるべきである。
生と死とを考えるべきであり、他者の信念と決定とを尊重すべきである。必要なのは、患者と医師、即ち国民一人々々が死生観の涵養を果たし、それを明らかにする事である。
近年、終活が巷間で話題であるが、高齢になったのであれば事前指示書やリビングウィルを明示しておく事も自分の為にも家族の為にも大事であろう。
儒教/漢字文化圏では個が弱く家が強い傾向にある。自己決定よりも家族の意向を重要視する。それを一概に否定する気がない。
しかし台湾は、安楽死法制化に向かい一歩を踏み出している。
日本でも安楽死の議論は無い訳ではないが、その成立はどうなのだろうか。終末期医療に関しては議論自体はなされている。2007年に厚生労働省が策定したガイドラインは2015年、2018年に改訂され在宅医療を重要視した終末期の医療・ケアのガイドラインとなっている。
しかし、終日の介護を要する要介護4や5の家族をケアする事は過剰な重みではないだろうか。要介護の等級が低くても、例えば認知症を患い徘徊する家族をケアしきれるのか。
介護からの解放を望む心情を抱かざるを得ない環境がある事実は適切な状況であるとは考え辛い。少子高齢化社会が進んでいる。老老介護、介護鬱、介護疲れによる殺人や心中。親愛や敬意があろうとも、いち早い死を望む心情を抱きうる。
家制度を悪しざまに否定し、核家族を推奨し子育てがし辛い環境を形成させておきながら、尚、国は個人が家や家族と言うものに縛られる事を期待する。人は、家族と言う群体ではない。
インフォームドコンセントが当然となった現在でも、死が近い不治の病であれば、本人ではなく家族に先に告げる医療機関も多い。先に本人に告げると烈火の如く怒る親族も未だ多い。つまりは、家族でさえも一個の独立した自我を持つ存在として認めていないのではないだろうか。
年齢・経験や患者と医者との関係にもよるであろうが、受け止め難い死の宣告もいずれは己のものとして受け止められる、受け止めるべきなのが一個の人間である。そうでなければ、なんら自己決定できない。誕生から死まで持ち続ける肉体という財産さえ禁治産とされるのが正しいとは思えない。
学生の時のとある合宿式の集中講義で、キリスト教の助祭でもある講師が日本人には独立した自我など育っていない、と言っていたのを思い出す。
まさしくそういう事なのであろうか。
そうであるなら、日本人は己の死さえ受け止められない。自分の生さえ決定できない。何も決定できない。上から与えられた形式的な民主主義で民主国家ごっこをし、自己責任という大義を振り回してより弱い者を虐げるだけの子供に過ぎない。
私は、安楽死は選択肢であり権利であると考える。
しかし近年の日本の、過剰な自己責任論を考えると、危うい気がしないではない。共産主義が人類には早すぎた様に、日本は安楽死を法制化するには幼すぎるかもしれない。両親と同居する男性社会人を「子供部屋おじさん」と揶揄し、川崎スクールバス殺人の犯人を、「一人で死ね」と言い捨てる。2000年頃に流行った「勝ち組」「負け組」と言う言葉、近年の「マウントを取る」風潮。かつての日本がどうであったのかは知らないが、ここ十数年で、上下対立を煽る傾向が強く非常に不寛容になっている気がする。
極端な話、人権と公共の福祉を無視して、自己責任のみを声高に叫ぶなら国家を含めた三権はいらない。
それでも尚、自由と尊厳と自己責任を謳うのなら、せめて最後のささやかな自己決定権くらいは執行させて欲しい。それを国家に望むのも傲慢なのであろうか。弱者の贅沢なのだろうか。
せめて「自殺ツーリズム」の資金くらいは貯金しておくべきなのだろうか。