太宰治『人間失格』読感
今更ながらに、太宰の『人間失格』を読んだ。
余りに有名どころ過ぎて何となく、今読まなくてもいいか、と言う感じで後回しにしていた。
青空文庫をうろうろしていたら、目に付いた。丁度いい機会であると思い。読み進めた。
人間失格。
シンプルで過激なタイトルである。
社会生活を碌に行えない身からすると、共感を抱く。
粗筋やらは、ネットでも紙でも氾濫しているので触れるまでもない。
玉川上水で心中をした太宰の最後の脱稿作であり自伝的小説、或いは小説風遺書とも言われている。
ただ、『人間失格』自体はかなり推敲さており練りこまれた作品であり、また遺書も太宰の五十回忌直前に公開されている。
太宰の人生を鑑みれば、自伝風小説というのは尤もな分析である。
私は、精読した訳でもないし文学者でもない。
ざっくりした読感は、ふーん、という所である。
生涯の出来事を抽出すると恥の多い生涯どころではないが、人格的にはそこ迄ではない。
女性限定ではあるが、好かれ容易に交友が出来るのは才能であろう。
あと、堀木正雄じゃなくて竹一と交友を続けた方が良かったと思う。
作品自体は素晴らしいし、見事に陰鬱である。
自己否定と絶望に彩られた主人公の生が描かれている。
社会不適合な身からすると、色々と身につまされる。
主人公大庭葉蔵なのだろうか。
確かに彼は、「恥の多い生涯を送って来ました」と回顧する様に褒められた人間ではない。
人の顔色を伺い、仮面を被り、意思が弱く、快楽に流れ、場に流され、ニートで、女誑しで、ヒモで、アルコール中毒で麻薬中毒、精神病院に放り込まれ、最終的には、時折老女に犯される隠遁生活である。
現代に置き換えても、彼は健全な人間ではないだろう。
しかし、彼が人間失格ならば、主要な登場人物の多くは失格であると思う。
父親、友人・先輩である堀木正雄、後見人らしき人物ヒラメ。
葉蔵ほど社会不適合ではないが、ろくでなしであるのは事実である。
葉蔵が意志薄弱である事を考慮すると、彼らの影響は多大である。
もっとも、振り回される様な惰弱な精神性を含めて、「恥の多い生涯」と回顧しているのだろうが。
葉蔵は世間が理解できず、そして世間とは個人であるという。
そして同様に葉蔵を理解した人物はいたのであろうか。
己を隠す葉蔵が、何もせず理解して貰おうとするのは甘えであるかもしれない。
しかし、理解し合おうと向き合う相手はいたのか。
葉蔵を理解している、と解釈している人物はいたが、理解していた人物はいない。
他者やその心情を理解するなどは幻想であり虚構である。
その虚構に従った予想通りに振る舞っていたのならば、真実は如何あれ、理解したと誤解する。
誰もが理解しない。
詰まる所、社会とは失格者の集合ではなかろうか。
弱者であった葉蔵が特殊なのではなく、世間から弾かれ落伍したに過ぎない。
人類という集合は、その構成する個人に於いて、人間失格であるといえるのかもしれない。