糸杉と鬼灯

眇眇四方山話

不惑の虚無主義と希死念慮

不惑を過ぎて尚、酔生夢死にどん底にいる。

不安ではあるが然程不満はない底辺生活である。

詰まらない人生の思念や記録を積み重ねても無価値であるが、ゴミ山を眺めるのも一興と思う。

 

 

決して恵まれた世代ではないが、もう少し一生懸命に生きていれば、もう少しマシな人生であったろう、と漫然と思う。

しかし、そうしてこなかった。単純にそうするに足る理由がなかった。

必死に生きた所で何の意味がある?結局死んでお仕舞なのだからそこに何の価値がある?

虚無主義的な問いが頭を離れなかった。

 

大学受験は無能なりに頑張った。レールの上を走るのは楽でであるし、勉強していれば虚無感を感じる事もない。

大学では、宗教や哲学、倫理学を学んだ。友達はおらず、一人であったが、それらを学ぶのは楽しかったし、現在でもそれら分野に関わるのは楽しく感じる。ただ、それらは虚無感を解決するには至らなかった。

たとえば裕福になる事。たとえば名を成す事。たとえば家庭を築く事。そこに意味を見出せない。成程、それらは人生の成功であり、或いはささやかな幸せなのだろう。しかし、結局は塵埃に帰すもの、必死に努力するに足るものと思えないのである。

 

フリードリッヒ・ニーチェのいう所の末人に近しい思考である。

末人とはLetzter Menschの訳語である。英語ではLast Manとなる。人間の最終段階であり、20、21世紀は末人の時代になる、とニーチェは予言していた。

最低の唾棄すべき軽蔑に値する人間である。

 

愛もあこがれも創造も知らず、健康に気を配り、労働も慰みの程度に必要とし、平等で貧しくも富んでもおらず、わずらわしいことはすべて避ける。安楽を唯一の価値とする人間たち。

 

創造する意志を持ち、憧れの矢を放ち、それを憧れ追い求める者こそが真の人間、超人である。

ニーチェの思想はさておき、ご尤もである。

みすぼらしい安逸に浸らず、常に前進を続けられれば、すばらしい事であろう。

しかし、私にはそうする意志の熱量が足りない。

人は怠惰であり甘えと言うだろう。

そこに専心する意味も価値も理解は出来る、しかし納得出来ない。

魂は震えない。

どうせ死ぬのだからそこに意味はない。

蚤の様な安逸も事実安逸なのだから。

 

故に思う。生きていても意味はないのだから、死んでしまった方が合理的であろう、と。

畢竟、人の生は死に集約される。

無意味な生ならば纏めてしまって構わないだろう。

 

積極的に死にたい訳ではないが、死んでもいいと思う。

自殺を考えないではないが、取り合えずはする予定はない。

流石に両親より先に死ぬのは申し訳ない。

 

只、生きるのが面倒臭い。

生きるのが辛い。

生きるのが虚しい。

 

実際、死に直面した時に死にたくないと思うか、やっと終われると思うか。

それは判らない。

人間とは生き汚いものであるのだから。

 

消え去れたのなら良いのに。